2006年10月25日

思い出のナスあんかけ

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/09(木) 00:26:40 ID:5L9SLk1h
皆良い思い出あるなぁ。

うちは母親の得意なおかずがナスを炒めてあんかけにしたやつだったんだけど
確かに美味しいんだけど弁当のおかずにされるのは恥ずかしくて嫌だったんだ。
見た目がどうもね、良くなくてさ。
でも嫌だとは言えず週に3・4回は食べてた。

成人して間もない頃に母が死に、まだその死の実感が湧かないうちに上京して、
食費浮かそうと思って弁当生活始めたんだけど、
どうしてもあのナスが食べたくてさ、アレがないと物足りないんだよね。

でも作れないんだよね、おんなじように。
そん時ふと「あ、おかんに訊いたらええんやん」と思ったんだ。
で、やっと実感したんだよね、母はもういないんだ、訊けないんだ、って事。

味の違うナス弁当に詰めながら顔パンパンに腫れるまで泣いた。
仕事の昼休み、食べる時にもまた泣いてしまって、他の人を困らせた。

上京して10年、ようやく母の味に近づいてきたけど弁当のおかずには
その日以来一度もしてない。
弁当にナス炒めは私にとっては切ないメニューだから。
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俺、いま幸せだよ

492 :1/5:2006/02/13(月) 05:50:13 ID:Ksv7Zq5b
俺には母親がいない。
俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。
産まれたときから耳が聞こえなかった俺は
物心ついた時にはもうすでに簡単な手話を使っていた。

耳が聞こえない事で俺はずいぶん苦労した。
普通の学校にはいけず、障害者用の学校で学童期を過ごしたわけだが、
片親だったこともあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから何を言われたか覚えていない(というか知らない)が
あの見下すような馬鹿にしたような顔は今も忘れられない。

その時は、自分がなぜこんな目にあうのかわからなかったが、
やがて障害者であるということがその理由だとわかると
俺は塞ぎ込み、思春期の多くを家の中で過ごした。
自分に何の非もなく、不幸にな目にあうのが悔しくて仕方がなかった。

だから俺は父親を憎んだ。
そして死んだ母親すら憎んだ。
なぜこんな身体に産んだのか。
なぜ普通の人生を俺にくれなかったのか。

手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えて叫んだ。
ときおり爆発する俺の気持ちを前に、父は抵抗せず、
ただただ、涙を流し「すまない」と手話で言い続けていた。

その時の俺は何もやる気がおきず、荒んだ生活をしていたと思う。



493 :2/5:2006/02/13(月) 05:51:13 ID:Ksv7Zq5b
そんな生活の中での唯一の理解者が俺の主治医だった。
俺が産まれた後、耳が聞こえないとわかった時から、ずっと診てくれた先生だ。
俺にとってはもう一人の親だった。

何度も悩み相談にのってくれた。
俺が父親を傷つけてしまった時も、優しい目で何も言わず聞いてくれた。
仕方がないとも、そういう時もあるとも、そんな事をしては駄目だとも言わず、
咎める事も、慰める事もせず聞いてくれる先生が大好きだった。

そんなある日、どうしようもなく傷つく事があって、
泣いても泣ききれない、悔しくてどうしようもない出来事があった。
内容は書けないが、俺はまた先生の所に行って相談した。

長い愚痴のような相談の途中、
多分「死にたい」という事を手話で表した時だと思う。

先生は急に怒り出し、俺の頬をおもいっきり殴った。
俺はビックリしたが、先生の方を向くと、さらに驚いた。

先生は泣いていた。

そして俺を殴ったその震える手で、静かに話し始めた。



494 :3/5:2006/02/13(月) 05:51:48 ID:Ksv7Zq5b
ある日、俺の父親が赤ん坊の俺を抱えて先生の所へやってきたこと。
検査結果は最悪で、俺の耳が一生聞こえないだろう事を父親に伝えたこと。
俺の父親がすごい剣幕でどうにかならないかと詰め寄ってきたこと。

そして次の言葉は俺に衝撃を与えた。

「君は不思議に思わなかったのかい。
 君が物心ついた時には、もう手話を使えていた事を。」

たしかにそうだった。
俺は特別に手話を習った覚えはない。じゃあなぜ・・・

「君の父親は僕にこう言ったんだ。

『声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通の生活を送れますか』

 驚いたよ。
 確かにそうすればその子は、声と同じように手話を使えるようになるだろう。
 小さい頃からの聴覚障害はそれだけで知能発達の障害になり得る。
 だが声と同じように手話が使えるのなら、もしかしたら・・・
 でもそれは決して簡単な事じゃない。
 その為には今から両親が手話を普通に使えるようにならなきゃいけない。
 健常人が手話を普通の会話並みに使えるようになるのに数年かかる。
 全てを投げ捨てて手話の勉強に専念したとしても、とても間に合わない。
 不可能だ。僕はそう伝えた。
 
 その無謀な挑戦の結果は君が一番良く知ってるはずだ。
 君の父親はね、何よりも君の幸せを願っているんだよ。
 だから死にたいなんて、言っちゃ駄目だ。」


495 :4/5:2006/02/13(月) 05:52:20 ID:Ksv7Zq5b
聞きながら涙が止まらなかった。
父さんはその時していた仕事を捨てて、俺のために手話を勉強したのだ。
俺はそんな事知らずに、たいした収入もない父親を馬鹿にしたこともある。

俺が間違っていた。
父さんは誰よりも俺の苦しみを知っていた。
誰よりも俺の悲しみを知っていた。
そして誰よりも俺の幸せを願っていた。

濡れる頬をぬぐう事もせず俺は泣き続けた。
そして父さんに暴力をふるった自分自身を憎んだ。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。あの人は俺の親なのだ。

耳が聞こえないことに負けたくない。
父さんが負けなかったように。

幸せになろう。そう心に決めた。

今、俺は手話を教える仕事をしている。
そして春には結婚も決まった。
俺の障害を理解してくれた上で愛してくれる最高の人だ。

父さんに紹介すると、母さんに報告しなきゃなと言って父さんは笑った。
でも遺影に向かい、線香をあげる父さんの肩は震えていた。
そして遺影を見たまま話し始めた。


496 :5/5 聞いてくれてありがとう :2006/02/13(月) 05:53:09 ID:Ksv7Zq5b
俺の障害は先天的なものではなく、事故によるものだったらしい。
俺を連れて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んだそうだ。
運良く父さんは軽症ですんだが、母さんと俺はひどい状態だった。
俺は何とか一命を取り留めたが、母さんは回復せず死んでしまったらしい。
母さんは死ぬ間際、父さんに遺言を残した。
「私の分までこの子を幸せにしてあげてね」
父さんは強くうなずいて、約束した。
でもしばらくして俺に異常が見つかった。

「あせったよ。お前が普通の人生を歩めないんじゃないかって
 約束を守れないんじゃないかってなぁ。
 でもこれでようやく、約束…果たせたかなぁ。なぁ…母さん。」

最後は手話ではなく、上を向きながら呟くように語っていた。
でも俺には何て言っているか伝わってきた。
俺は泣きながら、父さんにむかって手話ではなく、声で言った。

「ありがとうございました!」

俺は耳が聞こえないから、ちゃんと言えたかわからない。
でも父さんは肩を大きく揺らしながら、何度も頷いていた。

父さん、天国の母さん、そして先生。
ありがとう。俺、いま幸せだよ。
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人生の縮図

419 :おさかなくわえた名無しさん :2006/03/19(日) 10:14:12 ID:M79lZe6z
人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ
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2006年10月08日

子供の頃〜秘密基地〜

98 :大人になった名無しさん :04/02/02 01:17
小5のとき、作りました。
近所の雑木林の中。石を積んで椅子にして、ダンボールで壁と天井を作って、ビニールシートで雨をしのいで…。
雑木林ならではの湿り気と薄暗さが心地よかった。
毎日集まってどんどん拡大させていった。

あるとき、他の学区の奴らが同じ林の中に秘密基地作り始めて、「後から来たくせに」と、何となく悔しくなって、こっそりそいつらの基地の材料をかっぱらったりしてしまった。
そいつらとも、いつの間にか仲良くなっていて、基地も合体させて、凄く豪華なものになった。
もっと早くあいつらと仲良くしていればよかった。最初のうち、悪戯してごめんよ。

基地作りを始めて半年くらい経ったとき、いつものように遊んでいると、近所の婆さん(地主さんだったらしい)が現れて、「ここの林を汚さないで欲しい。また、騒がれるとうるさくて困る」というようなことを言われた。
婆さんは、僕ら全員に500円ずつ握らせて、その場所から立ち去らせた。
僕らは、説明がよく分からなかったけど、500円貰った手前、素直に基地を壊し、掃除をして立ち去った。
近所のスーパーに行き、貰った500円でアイスを買って、それを食べながら、他学区の奴らに別れを言って、僕たちは帰った。

その雑木林は、僕が中一のときに駐車場になってしまった。
あの頃はあんなに広く感じた林が、自動車が10台ほど停まれる程度のものだったと気付いた。
他学区のやつらとは高校で再会した。

今ではめっきりインドア派になってしまって、林で遊ぶなんてことはしない。
でも、凄くいい思い出だ。


113 :大人になった名無しさん :04/03/06 05:40
スレ見てたら懐かしい思い出が巡りまくってます(*´ェ`*)
自分は3つ基地作りました。
裏山、敷地内、学校の空き教室。
裏山と敷地内はまぁほとんどがいしゅつなんで省略。
空き教室は結構過激で楽しかったですよ。
机(×約40)、椅子(×約40)、先生の机、教卓。
これを7,8人でやりくりして基地を作っていくわけです。
先生の机と教卓はそれだけで居住区になるのでお得でしたね。
あとは机を横に向けて壁を作ってったり、
逆さまにして屋根(ホントは室内だから必要ないのにw)にしたり。
もう基地じゃないですよ!城ですよ、城!
んで、楽しいから授業の時間になっても居座り続けちゃうんですねぇ。
当然先生が呼びに来るわけですが、なぜか鍵をかけないんですよね。
そこは少年の深層心理。隠れてるとこを探し出して欲しいんですねw
で、一人が見つかってタイーホされたら、
みんな一斉に脱出して、ベランダから自分の教室に逃げるわけです。
次の日になったらなぜか机等の配置が元に戻ってて、
またそこから日々の繰り返しが始まるわけですよ。
楽しかったな〜
あ、先生、あの頃は迷惑かけっぱなしでごめんなさいw

118 :大人になった名無しさん :04/03/11 14:15
謎の廃屋を占拠して秘密基地にした。納屋のような資材置き場のような
薄気味悪いところだったが、屋根裏のような隠し部屋をつくったりした。
バカだから「忍者屋敷」と命名した。
金出し合って麦チョコを非常食として置いておいた。
高校生の侵入にも、浮浪者の占拠にも耐えた。
いつもいると近所の人に怒られるので山の中に第二基地もつくった。
無事に世代交代も果たした。(下の学年の奴らに譲った)

20年以上経って久々にその辺りに行ってみた。
小さい家が3軒程建っていた。少し寂しさを感じたよ。
さよなら、俺たちの忍者屋敷

128 :大人になった名無しさん :04/04/28 21:30
リア厨のとき学校の近くの水量調節用の畳3畳くらいのスペースででよく仲間数人とタバコ吸ったり、エロ本見たりしていた。
周りから白い目で見られていた漏れたちだったから、妙にその空間が居心地よかった。
家からローソクやらなんやら持ち込んで、かなり中は凄いものが出来た。

よく学校抜け出してそこで語りあって、ほとんど家と化してた。
でもそこは厨房のあさはかさ。上に穴があいてるのにも気づかず、
拾ったヤンジャンを轟々と燃やしてた、もう煙が出るわ出るわ
もう煙くて外に出ると、凄い勢いで煙が出てた。
そのあとソッコーダッシュで逃げたけど後ろの方からウーウー
消防車の音が聞こえた、あんときはマジでびびったね。

そのあと警察とか救急車も来てたけどなぜかばれなかった。
いろいろ証拠はあったのに。学校では全校集会があったけど。

今やその基地も雨で流され、そのときの友達もみんなバラバラだけど、
あんときは楽しかったなぁ、このスレ見てたらそんな事を思い出してしまた。
長レス、スマソ
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過去から未来へ

450 :1:2006/08/29(火) 03:25:30
俺から告白して彼女が言った言葉

「浮気しなきゃ良いよ」

そりゃこっちから告白したけどさ、せめて「いいよ」とか「うん」とかの
返事ぐらい普通はするでしょ。それが「浮気しなきゃ良いよ」ってどうよ?
まぁ好きだからそこまで悩まなかったけどさ

付き合いだしてからはこっちから電話やメールしないと駄目なんだよ
向こうから電話やメールは絶対にしてこなかった。
まぁ好きだからあまり気にしなかったけどさ

しかもデート行っても殆ど笑わないんだよな。なんつうか俺と一線引いて
付き合ってる感じが凄いするんだよな。だからこっちは「あぁ嫌々付き合って
るんだなぁ」なんて少しこの時は悩んだ時があった。
まぁこれも少しすると一緒に入れるだけで嬉しかったから、気にしなくなった。

つうかここまで書いてみたけど普通の男ならとっくに別れてるだろうな。

まぁそれからも一方的に俺が誘って彼女が「うん」と返事をするって関係が
続いてた。でもそんな彼女も俺の誕生日やクリスマスなんかはプレゼントを
ちゃんとくれるんだよな。それとバレンタインの時はチョコも、だから俺も
「彼女もまぁまぁ俺といて楽しいのかな」なんて思ってた。つっても態度は
そんなに変わってないし、電話やメールも俺から送らないと駄目だけどね。w


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2006年10月05日

あなたがその時優しくすればいい

458 :ほんわか名無しさん :2006/09/15(金) 23:03:44 0

 大学生のころのことです。
 私は、夜遅くまで先生の研究室で卒論をかいていました。
 いつもやさしくて、見守ってくれる女性の教授が、私の担当教授でした。
 「さ、一緒にがんばりましょう。」
 って言う先生の手には、ゼミ生が提出したチェック待ちの原稿。
 本当はだれよりも先生が疲れているはずなのに、先生は一度も笑顔を絶やさなかった。
 三日間くらい満足に寝てなかった私は、まだ仕上がらない原稿を見て、涙が出てきた。
 こんなときに泣くなんて、自分でもなんてめんどくさい子なんだって思ったけど、
 忙しい先生に迷惑をかけている。。。。先生の疲れた顔を見てると、悲しくなってきた。「 
 なのに終わらない。。。。いまさら、先生に頼っていた自分に気づいて後悔して涙が出てきた。
 声を押し殺して泣いたのに、先生は気づいた。
 「どうしたの? 友達帰ったから寂しくなっちゃった??」なんて、子供に対していうようなせりふで慰めてくれる先生。
 「ほら、泣いてちゃ終わらないわよ。あとちょっとじゃない!がんばろっ!」って言って、私の原稿をチェックしてくれた。
 1時間ほどたって、私が落ち着いてきたころ、先生が、「さ、あなたはそろそろ帰りなさい。」
 といった。でも、帰ろうとする私に、「待って、一緒に帰りましょう。」って先生は言った。
 暗い夜道を二人で歩く。先生は帰り道、逆なのにね・・・「最近運動不足だし、いいのよ。」とか言って・・・・
 先生、本当にありがとうございますって言った私に、先生は

 「あなたが先生になった時、生徒にやさしくしてあげればそれでいいのよ!!」
 
 って言ってくれました。
 私はその言葉を胸に、その先生のような先生を目指しています。
 くじけそうになった時、その時の先生の笑顔を思い出すと、元気が出ます。
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LET IT BE

455 :ほんわか名無しさん :2006/09/15(金) 17:31:11 0
いい話かどうか分からないけど、自分が救われた話

中学の頃、尊敬できる友人がいた
小学は別で、中学あがるやいなやかなり勉強ができると専ら噂になってた
当時運動神経いいことだけが唯一のとりえだった自分よりも運動ができた
クラスが一緒になって、すぐ仲良くなったけど、何をやっても自分よりも先に行ってる感じの子で、今でもそうだが何故か君付けで呼んでた
そんな彼に触発されてか自分も真面目に勉強するようになり、県内一の進学校に共に進学
だけど周りがかなりできるというプレッシャーからコンプレックスを抱くようになり、自分だけ逃げ出すように中退
取りあえず、大学進学だけはしなくちゃと思いながら毎日図書館に通い勉強してました
週末は地元の友達と遊べるので大丈夫だったけど、平日は毎日一人で図書館、孤独でした
そんな生活を2年近く送ってました
「このまま大学行けんかったら中卒かぁ」
「そもそも何でやめたんや」
「○○君(上の友達)はそのまま順調に卒業して、ええ大学入って、人生順風満帆かぁ」
毎日そんなくだらないことを考えてた、彼と会ったときは特に
夜な夜な暗い天井を眺めながら泣いたこともありました
毎日が孤独、不安で、気付けばコンプレックスの塊になってました


456 :ほんわか名無しさん :2006/09/15(金) 17:31:56 0
そんな時に見た夢
夢の中で起きると僕は焦ってた
そういや今日はライブで自分が歌うことになってる
何故人前が苦手な自分が歌うことになったかよく分からないけど、急がなくちゃ
学校に走る、体育館が見えた、中は暗い、やばい始まってる
音が聞こえる、中に入る、暗い、みんな座って前を見てる、彼だ(上の友達)、彼が歌ってる
そういや今日一緒にやる約束だった、僕が遅れたから場をつないでくれてるのか
取りあえずこの歌が終わるまで待とう
スポットライトの中、舞台の上で、彼はピアノを弾きながらビートルズのLET IT BEを歌っていた
かなり巧い、みんながみんな彼の曲に聞き入ってる
奇麗な光景で、輝いて見えた
曲が終わり拍手をあびる、彼が僕に気付き、舞台から下りてくる
そして彼は僕の手を引っ張って、舞台に上げた
おもむろにマイクを手に取ると、こう言った
「次は君の番だ」

朝起きたら泣いてました
彼にそう言われたことが嬉しかった
半ば諦めることが多くなってたけど「まだ自分にも舞台にあがるチャンスがあるかもしれない」
そう思えた
LET IT BE(なるがままにしなさい、なるがままにすればすべてうまくいく)
僕の応援歌の話でした
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2006年10月01日

あんたを前にしたら無理だよ

54 :癒されたい名無しさん :05/03/15 03:30:43 ID:J5aCFqZ5
親友の貴方。
もう貴方と会ってもうすぐ8年目。
途中貴方が海外に親の都合でいなくなった空白もあったけど
そんなものうちらには関係なかったよね。
暫くしたら戻るって知ってたしたまにメールとかしてたし。
でも、今回は違うんだよね?まだ信じられないけど。
親の都合だし、離れたって切れない絆があるって信じてるよ。
でもさ貴方ともうら寄り道したり、
休みの日に定期的にお互いの家の行き来が出来なくなんのは
やっぱり寂しいよ。
貴方の前で、初めて泣いたらゴメン。
あーぁ、私人前では泣きたくないんだけどな。
あんたを前にしたら無理だよ。
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2006年09月21日

プール、青空、遠い夏の日

99 :大人になった名無しさん :04/08/21 01:30
体育の授業が、プールで水泳。よく晴れた日で、さんざんはしゃいで、その次が教室での授業。
教室中に漂うプールの消毒薬のにおい。
他のクラスが水泳の授業をやってて、プールからの歓声がやけに遠く聞こえる。
斜め前の女子の、まだ乾ききらない長い髪の毛をぼんやりと見てたら、
何というか気だるくなって、もう眠くて眠くて。
窓の外に目をやったら、青空がすごくまぶしかったな。
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北海道の夏休み

253 :大人になった名無しさん :2005/06/29(水) 15:11:23
俺は幼少時代を北海道で過ごした。本州と比べて、夏休みは25日と短いが、
それでも子供の時分にとっては、十分に長い休みだった。
特に壮大な計画を実行したわけではないが、いつもの仲間と一緒に外出していれば、
それだけで満足だった。

入道雲、青空、蝉の鳴き声、森林の探検、川や海、虫取り網&虫カゴ&麦わら帽子の三点セット、
すいか、花火、花火を横目で見ている近所のおじさん達とビール、時に全てを無にする雷雨(w
バーベキュー(北海道はもちろんジンギスカン)、キャンプ、蚊取り線香、盆踊り………

全てが日常で味わえる、非日常的な夢のような日々だった。

で、どういうわけか毎年8月15日頃、それまで見られなかった光景を目にする。
早朝6時頃、外へ出てみると、車に結露が発生する。もちろん空気はひんやりと冷たい。
日に日に昼が短くなり、終戦記念日と相まって、(ああ、もう夏も終わりなんだな)と、
子供なりに何ともいえない物凄く淋しい気分に陥ったものだ。
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2006年09月17日

弁当の大切さ

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/08(日) 19:24:21 ID:T0UPMxaj
私もここの人たちと似てる。
高校のとき母ちゃんが毎日お弁当作ってくれてた。
しかも今思うと、すっごい凝ってた。
でも、お昼に菓子パン食べてる友人を見て、いいなーって思っちゃって、
ある日、「明日お弁当いらない。パン買うから。」って言ってみた。
母ちゃんは、「お弁当作らなくって済むから楽だわぁ」って500円くれた。

でも、帰ってきたらいつもより豪華な晩ご飯。
聞けば「お昼いいもの食べてないんだから、晩に栄養とらなきゃね!」って。。。

それ見て、パンを買うのはやめました。
毎日母ちゃんのお弁当に、冗談交じりにケチつけながらも、感謝して食べました。

大学でひとり暮らしを始めたときも、泊まりに来て、
大学に持っていきなさい、他の一人暮らしの子にも分けてあげなさい、って
タッパーにすごくたくさんのおかずを詰めて持たせてくれた。
「恥ずかしいよ〜」って言いながらも、大学で友人に振舞うときは誇らしかった。

社会人になって自分でお弁当作るけど、母ちゃんのお弁当には全くかないません。
また食べたいなぁ・・・
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2006年09月16日

弔辞を書くための思い出

65 :大人になった名無しさん :04/03/20 16:44
ばあちゃんが亡くなって、実家へ帰ったら父親に『弔辞を読む人が数人いるんだけど、
最後に孫のお前も読んでもらう事になったから』と急に言われた。
弔辞なんてどういう事を述べればいいんだ?と全く無知だった私は、下書き用のノートを目の前に
悩んでいた。叔母に相談したところ、ばあちゃんの思い出を書きなさいとアドバイスをもらったので
昔の思い出をあれこれと巡らせてみた。
夏の暑い日に学校からヘトヘトになって帰った私に氷入りでグラスいっぱいの麦茶を
すぐに出してくれた事
お湯で溶いて冷やして作るゼリーを作ってくれたんだけど分量を間違えて固めにできて
『ハイカラなの、作り慣れね。』とちょっと照れながら出してくれた事
私の結婚に母親が猛反対で大喧嘩してる間に割って入って私を守ってくれた事
そして息を引き取る前までずっと『あの子は母親に出て行けって言われて可哀想だった』と
付き添いの叔母に言い続けていたという事
弔辞を書くより、ぼろぼろ涙が出てきて大変だった。
やっと書き上げたものをお寺で読み上げる時、また泣きそうになってしまったけど頑張った。
その傍らで父親が声を押さえずに泣き出した。
そんな泣き方をする父親を見たことが無いと、母親は言ってた。

あれから2年、弔辞を書くために引っ張り出した思い出はより一層私の心に
残っている。
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2006年09月14日

孝行出来ないでごめん

43 :大人になった名無しさん :04/02/08 06:46
俺が零歳、兄貴が一歳で親が離婚して、赤ん坊から幼稚園まで父方の婆ちゃんに育てられ
たんだけど、別れる時はいつも冬で雪がキラキラしてた記憶が。札幌だからだと
思うけど。
親父が再婚して新しい母親と迎えに来た時と、大学時代の最期の二回だけど。
迎えに来た時、日が照ってるのに雪の中で婆ちゃんボロボロ泣いて家の前で手振ってて、
俺も泣いてて、兄貴は達観してるのか大人しかった。
入院してた時の婆ちゃんの手は暖かくて、外はパウダースノーのいい天気なのに
寂しくて全然冴えない気分で。
1週間くらい点滴変えたり手握ってたんだけど、その間100回くらい俺が子供の頃道路に
取り残された話とか繰り返してた。多分記憶が混乱してたのと寂しかったんだと思う。
期末試験なんで俺が帰る時にもう最期だなと思って、やっぱ最期だったんだけど
5年間育てて貰ってその後累計三ヶ月くらいしか一緒に居なかったし、長い間
婆ちゃんは一人ぼっちで、何か試験なんかぶっちぎりで留年しても良かったかな
と今でも後悔。一つ上の兄は何かと婆ちゃんにはやさしくしてたんだけど
俺はちょっと人間としてどうなのか?事あるごとに昨日の事みたいに思い出す。
婆ちゃん何にも孝行出来ないでごめんでした。
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2006年09月10日

年老いた自分

417 :大人になった名無しさん :2006/07/01(土) 19:26:42
親に叩き起されて行ったラジオ体操
友達と作った秘密基地
自転車に乗って山目指して冒険したり・・・
アノ頃は友達と一緒なら何でも出来た気がする

本当に楽しかった・・・

最近の小学生が公園でゲームしてるの見ると可哀想に思えてくる。

ジブリの耳をすませば や 井上陽水の少年時代を聞くと
泣きたくなって来る自分がいる
俺も年老いたな・・・
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Gへ・・・

733 :大人の名無しさん :2006/08/29(火) 16:08:12 ID:M0TngS9m
Gへ
今、何してるの?
こっちはみんな元気でやってるよ。
今、こうして書いてる後ろで上の娘は妖怪辞典を読んでるw
私の娘らしいでしょ?w下の娘は寝てるよ。
Gがいなくなって今日で10年。私が二人の子持ちだよ。
Oも二人の子持ち。驚くべきことにMくんも女の子のパパだよ!
Aちゃんも結婚して幸せにやってるよ。
Mくん、Oちゃんともすっかり付き合いがなくなっちゃったけど、今夜久しぶりに電話してみようかな。
さっき、10年前にもらった手紙、読み返してみた。
馬鹿だったなあwでも楽しかった。
さかんに退院したら旨い物食べたいっていってたね。
今はあの頃よりおいしいもの食べられるし、海外だって何度も行ったけどさ、あの頃みんなで学校帰りに食べたOO屋の安い焼きそばやたこ焼きのほうが美味しかったし、近所を当てもなくドライブして道に迷った時のほうが楽しかったよ・・・あの味・思い出にはかなわないな。
あと手紙に「興味を持つものが同じ。以心伝心だね」とあったね。
今は私はすっかり2ちゃん浸りwGも生きてたらきっと立派なちゃねらーになってたはず。
PCほしいって言ってたもんな。ってか、今頃みてるんじゃないかな?

今、10年たってもG以上の友達は見つからないな。
うちの旦那、Gに会わせたかった。きっと仲良くなれたはず。
会いたいよ。ものすごく。こんなこと言ったら笑うだろうけど。
最後にGは私たちに「ありがとう」ってことばを残してくれたのに私はお礼をいえなかったよ。こちらこそ本当にありがとう。
あと何年したらあえるかな?たくさんたくさん、話したいことがあるよ。
その日を楽しみにしてる。
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2006年08月31日

ハートにズッキュン金縛り

859 :愛と死の名無しさん :2006/08/26(土) 01:56:55
今日、予約してたエンゲージを一緒に店に取りに行って食事予定なんだけど、どんなプロポーズをしてくれるのかドキドキです
(*´Д`)

860 :愛と死の名無しさん :2006/08/26(土) 13:44:04
レポよろ。


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2006年08月30日

青春の集大成のあの日

330 :大人になった名無しさん :2006/07/19(水) 00:25:10
学年のアイドルみたいな女の子が答辞読んでる最中に泣き出した。
泣いたことなどない俺にはマジで理解不能だったから嘘泣きだと思ってたけど、
女子がもらい泣きし始めてビクーリ。だって普通に会えるのに、
みたいな気持ちだった。ヤなヤツ。

1年からずっと仲良かった女の子に、中3の夏に告白して断られてから
微妙にギクシャクしてたけど、その子が俺のアルバムに仲直りしようって
書いてくれててすげー嬉しかった。打ち上げのシェーキーズで声かけて、
彼女の制服のリボンと俺の袖のボタンを交換した。
(袷のボタンはノリで全部部活の後輩にあげてた)

「いい彼女見つけろよ」だって。超ナマイキ。

つーか思い出したら本当語りきれねーな。かなり長い一日だった。
青春の集大成があの日にあったかもしれん。
posted by 管理人@ at 22:58 | Comment(3) | TrackBack(0) | 読み物(まじめ)

2006年08月28日

ばあちゃんと同じ夢

721 :大人の名無しさん :2006/08/19(土) 04:27:41 ID:+BGBmjFk
ばあちゃんが死んで、初めてのお盆を迎えた。
坊さんのお経が終わった後、俺は兄貴と一緒に伯父に呼ばれた。
伯父は「形見の品をと思ったが、何を残すか聞き忘れた」と言い、代わりにと封筒を渡した。
中には現金と、伯父の手紙が入っていた。

そこには、
「おばあちゃんが教師になりたかったことを知っていますか」
と書かれていた。

俺は大学を出た後、どうしても教師になりたくて、大学に再入学しようと考えた。
だが俺には自力で行けるほどの貯金は無く、両親に頭を下げるしかなかった。
この話を聞いて、一も二もなく金を出してくれたのは、実はばあちゃんだったと知った。

脳梗塞で倒れ、最後は意識障害で俺が誰かもわからなくなっていたばあちゃん。
そんなばあちゃんを見るのが辛くて、最後の方はお見舞いにも行かなかった。

ばあちゃん、出来の悪い孫でごめん。
不孝者でごめん。
ばあちゃんが生きてるうちに、教師になれなくてごめん。

倍率の厳しい教員採用試験の一次試験、受かったよ。
来週の二次試験も、必ず通ってみせるから。
じいちゃんとばあちゃんの形見の金でスーツ新調して、必ず4月から教壇に立つよ。

ばあちゃんの分まで、立派な先生になるよ。
ばあちゃん、ありがとう。
posted by 管理人@ at 00:31 | Comment(4) | TrackBack(0) | 読み物(まじめ)

2006年08月27日

小遣いををせびる母

229 :名無しさん@明日があるさ :2005/12/06(火) 00:34:39
前の会社で働いていた頃 母親からこずかい毎月一万ほどせびられた
一人暮らしの俺にとってはつらかった 払わないと「親不孝者」、「バカ息子」など
罵倒の嵐 この糞ババア いつかマジで殺してやると呪った事もあった
しかし 中学時代 グレて散々迷惑をかけた手前 半ばあきらめていた事もあった 
 やがて俺が社会に働きに出て数年後 おふくろは死んだ その時 通夜の席で親戚に
一冊の預金通帳を渡された 額は100万程度 聞けば俺の浪費癖を心配したおふくろが
毎月俺からせびっていたお金を毎月積み立ててくれたものらしい
 それを聞いた時、俺は号泣して泣いた 金を請求されるという表向きの事にとらわれ
なぜおふくろが金を請求するのかという事を考えもしなかった自分自身が誰よりも許せ
なかった 母親が死んだ当時、俺は会社をリストラされ貯金も無く失意のどん底だったが
この100万円のおかげでホームレスにはならなくて済んだ 今でも駄目なリーマンには
変わりはないが、つらい時はこの事を思い出して頑張れてる 今さらだけど・・・・・。
お母さん・・・・・・。ありがとう・・・・・。
posted by 管理人@ at 12:48 | Comment(3) | TrackBack(0) | 読み物(まじめ)

2006年08月26日

憧 憬

579 :1/4:2006/01/16(月) 09:17:24
小学生の頃、よくお世話になったカズ君とヨウ君という一つ年上の先輩がいる。
まぁ彼らとは小学生時代に知り合った仲だし、
ヨウ君に至っては他校の生徒だから先輩というよりも良き兄貴分のような間柄さ。

カズ君は遊びグループのリーダーで、
洋画"Stand By Me"でKiefer Sutherland扮するAce Merrillや
「ドラえもん」に出てくるジャイアンのような典型的なガキ大将。
彼は権威を振りかざし、年下のみならず同等のはずの
同級生さえも配下に置く、誰も逆らえない絶対的な存在だった。
ちょっとでも彼の機嫌を損ねた者は、
グループ内での執拗なシカト攻撃がはじまるんだ。
普段、弱者内でのダメリーダーだった僕には本当に付き合いづらい相手だったな…
しかも彼の住居がうちのすぐ近隣だから、
道端で鉢合わせしないように慎重に行動したよww
でもカズ君には統率者としてのオーラがあった…
そんな独裁体勢に僕達は服従し、
人生を渡り歩くために必要な尊重すべき上下関係というものを叩き込まれたし、
人脈の広い彼との出逢いで、極力保守的だった
僕の交友関係の輪も大きく広がり急成長を遂げることができた…
実際‘もう一人の先達’ヨウ君との出逢いも彼を経由してる。
カズ君がいなければつまらないスクールライフを歩んでいただろう…
いわば人生のキーマンだな。

小学生の頃にカズ君先導の下、
そのうち自分達が進学するであろう中学校の周囲をチャリで廻り、
諭すように「ここがいつか俺達の通う学校だぞ」と告げられた経験が忘れられない…
ヤンチャな彼の背中が先輩としての威厳を放っていたし、
高い塀越しに校舎を見上げたとき、
具体的な人生の階段を目の当たりにした気分だったよ…
これから一体どんな運命が待ち構えているんだろうってさ。。。


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posted by 管理人@ at 00:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読み物(まじめ)

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